食で心と体をつなぐ – ホリスティック・ヘルスコーチング の ソフィアウッズ・インスティテュート

あなたのバイオ個性に着目するNYC発ポストモダンな食事法

なぜ、もはや“ナチュラル”に何の意味もないのか

 

消費者としては、コマーシャル等に使用されている、「ナチュラル」とか「天然」という言葉には、ちゃんとした定義があって、何等かの基準に沿って使用されていると思いたいのですが、下に訳を掲載したポーランの記事を読んでみると、「ナチュラル」とか「天然」という言葉を定義することは、かなり哲学的な考察が必要で、米国の食品医薬品局(F.D.A.)があきらめた様に、無理なことなのかもしれないと思うようにもなりました。

だって今の多くの野菜や果物は品種改良の結果の作物ですから、そうした意味では、F.D.A.が言うように、もはや「地球の産物」ではなく、人為の産物ですから、つきつめれば、自然食品といえどもナチュラルでも天然でもないということになりますよね。

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一方で、たとえ言葉として定義できなかったとしても、食品表示をする上での基準を設けることは可能ではないかとも思います。

例えば、「無添加」という言葉が日本ではよく使用されますが、正式な定義はありません。香料が添加されていても無添加ですし、酵母エキスが入っていても無添加です。何かひとつでも従来品と比較して添加していなければ、「無添加」と表示されてしまっています。厚生労働省も消費者庁も「無添加」を定義していませんから、メーカーの自由です。

「無添加」という表示は、添加物がひとつも入っていないという意味ではないんですよ!

ナチュラルや天然や無添加という言葉を宣伝や広告や食品パッケージに用いる際の、明確な使用基準、実用的・実務的な定義が必要だと強く思います。例えば、「無添加」と表示するためには、天然であろうが合成であろうが、食品添加物がひとつも使われていてはいけないとか。

ニューヨークタイムズ誌に掲載されたマイケル・ポーランの記事を和訳して掲載します。

皆さんはどう思われますか?

(余談ですが、ポーランの文章は、英語で読むとスムーズに入ってくるのですが、日本語にするのが大変でした。日英のシンタックスの典型的な違いが際立つ文章を書く人ですね。)

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翻訳シリーズNo. 007

著者: MICHAEL POLLAN、 2015年4月28日
翻訳: 森 智世、 2015年5月5日

日常会話によく使われる普通の英単語の定義が、連邦裁判所で争われることは日常的ではない。でも、まさにそれが、“ナチュラル”という単語について起きたのだ。“ナチュラル”チートスパフや“オールナチュラル”サンチップス、“オールナチュラル”ネイキッドジュース、“100%オールナチュラル”タイソン・チキンナゲットなどのように、撞着(どうちゃく)食品の宣伝に使われる修飾語の誤用に関し、200以上のクラスアクション(集団訴訟)が過去数年間に、食品メーカーを被告として起こされている。原告は、これらの製品の多くは、高果糖コーンシロップや合成香料と着色料、保存料、遺伝子組換え食品など、通常、消費者が“ナチュラル”とは考えない成分を含んでいると主張している。

人間の意識や心の中の何かが、まだ人為に汚染されていないものごとを称賛する言葉を必要としているように思われる。その言葉とは、今、“ナチュラル”なのだ。この言葉は、修飾的に全てに適用できる。例えば、実験室で人為的に造られ、不活性化した(それ故、無害な)病原菌ではなく、生の病原菌そのものに暴露することで得られる“自然免疫(ナチュラル・イミュニティ)”の優越性がワクチン反対者の間では信じられている。『医療の真実のためのキャンペーン(Campaign for Truth in Medicine)』というワクチン反対者のウェブページの記事によれば、「体内にワクチンを接種することは、不自然(アンナチュラル)な行為」だ。これとまったく同じフレーズが、かつて同性愛や、もっと最近では、同性婚を非難するために使われている。ファミリー・リサーチ審議会(Family Research Council)は、“自然婚(ナチュラル・マリッジ)”と呼ぶものと比較し、同性婚を好ましくないとしている。

じゃぁ、我々は、“ナチュラル”について話す時、いったい何について話をしているのだろうか?それは場合によって変わる: この形容詞は、感動的に危険だ。この形容詞の使用方法は、見過ごしやすく疑わしい仮説に浸かっている。その仮説の最高の矛盾点は、たぶん、自然は、我々と我々が製造したり手を加えたりしたもの以外で成り立っているという認識だ。まるで、我々は全て、心の中の真髄においても、創造説者のようだ。

自然免疫”のケースでは、この修飾語は人間の介在の欠如を示唆している。“自然の流れに任せる”ように、我々が何もしなければ起こるであろうプロセスに任せるという意味だ。確かに、のほとんどは、自然の流れに逆らうように創られている。それがまさに我々が薬を好む理由だ。死が、好ましいというよりも自然であるような状況において、少なくとも、薬は我々を死から救う。

それでもなお、時に、薬による介入は歓迎されないか、あるいは過剰になり過ぎる。だから、自然が起こす行為は、有益な修正力として働く可能性がある。これは、人間的行為の技術的な巧妙さが裏切られるところを目撃してきた、特に人生の始まりと終わりにおいて、“自然分娩”や、もっと最近では “自然死”の両方が我々にもたらす真実であるように思われる。

私は近いうちに“自然死”という言葉が多くの医者の口に上ると予測しているが、“自然死”に使われるように、自然という形容詞は、シリアル菓子から死に至るまで、大抵の全てを好ましいものにしてしまう修飾語の力を示している。人生の終焉を迎えた患者とその家族に、「蘇生しない(D.N.R.)」ことを合意させるのは困難だと思われる。多くの人の耳には、「D.N.R.」は、まるで、おじいちゃんをバスの下敷きに投げ出すくらい、少し辛い響きがある。しかし、『医療倫理ジャーナル(Journal of Medical Ethics)』の論文によれば、「蘇生しない」を「自然死を促す」という言葉に言い換えると、患者も家族も、そして医療従事者においても、まったく同じ行為に対し、合意する可能性が高まる。

この言葉は、人間の行為に適用される場合と生物学(スナック菓子も含めて)に用いられる場合では少し意味が異なる。婚姻やある種の性的行為が“ナチュラル”と表現される時、この言葉は、戦略的に“ノーマル”や“伝統的”と同義に用いられるが、“ノーマル”や“伝統的”のどちらもナチュラルほど修飾語としての重さをもっていない。“ノーマル”という言葉は、今や、偏見的モラルにあまりにも浸りきってしまっている。一方、“ナチュラル”は、人間の低俗さを超越したところを浮遊している、“神の法則”の俗世バージョンのように感じられる。まさしく、それは、アメリカ創立の父達が、権利の付与者であり善悪の裁判者として、神ではなく自然に祈念した、その選択を正当化するために、“自然の法則”が果たした役割でもある。

伝統的”結婚は、もっと保身的な表現かもしれないが、“伝統的”は、ナチュラルよりもずっと弱い形容詞だ。伝統は、時代とともに、文化ごとに変化する。そのため、時代も文化も関係なく、混沌とした疑義のある歴史の影響から超越していることが感じられる“ナチュラル”がもつ権威に比べ小さな力しかもたない。

ここでの暗黙の了解は、“ナチュラル”は、モラルや倫理的価値観に耐え得るという前提、そして、我々は自信をもって倫理的価値観とは何かを述べることができるという前提だ。哲学者たちは、これをしばしば、“自然主義的誤謬”と呼ぶ。自然主義的誤謬とは、(自然界の)何ごとも、なるべきようになるという考え方である。しかし、もし自然が、我々が自分自身を諮るためのモラル・スタンダードと志すべき価値観を提供するとしたら、いったいそれはどんな価値観なのか?ヒトは自分自身のためだけに存在しているという「自然、血で赤く染まった歯と爪」(※弱肉強食の意)で表現される暴力的で競争的な価値観なのだろうか?それとも、コミュニティの意思が個人の意思を排除する、蜂や蟻の巣で見られる協力の価値観なのだろうか?同性婚反対者は、動物界に一夫一妻制の例を見つけることができる。しかしそうするためには、同じくらいの頻度で見られる動物界の一夫多妻制の例や増えつつある、あからさまな同性性の例を無視する必要がある。そして、動物界におけるレイプや子殺しに非常に似た行為の、うろたえてしまうほどの発生率や平均的な家猫の明らかにサディスティックな行為を見過ごしてはならない。

アメリカのピューリタンは、自然を「神の第二の本」と呼び、今日我々がするように、モラルの指南書として(自然を)読んだ。そしてまた、我々の行いや主張のほとんど全てについて、それを裏付ける文章を、探し廻れば、聖書の中に必ず見つけることができるように、ほぼ全てのことを正当化するために、自然をあさりまわることもできる。まるでアハブの凶暴な白クジラのように、我々は、無地のスクリーンである自然に、見たいものを投影する

であれば、何がナチュラルなのかと問う時、何でも構わないのだろか?私はそうは思わない。実際、哲学的な知恵を食品医薬品局(F.D.A.)から得ることができると私は考える。連邦裁判において、“ナチュラル”という言葉に関し起されたクラスアクション訴訟に適用できる定義を見つけることができなかった時、3人の裁判官がF.D.A.に、言葉を定義するよう命令書を記している。しかし、F.D.A.は、何度か試みはしたものの、定義することを拒否した。F.D.A.が裁判官に提供した唯一の提言は、“ナチュラル”と表示された食品は、「人工でも合成でもないもの」で、「人工あるいは合成とは、通常、食品に含まれていると思われないもの」であった。F.D.Aは、そのホームページに、「食品を“ナチュラル”と定義することは困難である。なぜなら、食品は大抵加工されており、それはもはや地球の産物ではないからである。」と述べている。つまり、この点について、あまり突き詰めない方が賢明であると、食品業界に対し示唆しているのだ。でなければ、売るもの全てがナチュラルではないということが露呈するだけだからだ。

F.D.Aの哲学者は、たぶん正しい。少なくとも余白で“ナチュラル”の定義を確定させることは不可能だ。しかし、その余白と余白の間には、常識という広大な空白が横たわっている。“ナチュラル”には、かなり頑強な反対語 – 人工合成 – がある。少なくとも相対的な価値観では、どちらが“よりナチュラル”かを述べることはそれほど難しいことではない: きび糖か高果糖コーンシロップか?鶏肉かチキンナゲットか?遺伝子組換え食品かエアルーム(伝統)種か? スーパーマーケットで、本当にナチュラルな食品が、言葉使いに気配りすることは希だ。君に、「これはナチュラルだ」と告げなければならないと感じている食品は、ナチュラルではない。

常識の岸を超えて冒険することは、たぶん賢明ではない。なぜなら、あまり遠くないうちに、スキュラ(※スキラの巨岩に棲む6つの頭と12本の足を持つ女の怪物)やカリブディス(※シシリア島沖の巨大渦潮)に遭遇するからだ。ナチュラルという言葉がもつ意味の幅の、一方の端には、ナチュラル以外の何ものもない。我々人類の存在は、他のすべての種(しゅ)を創り出したプロセスと同じプロセス – 自然淘汰 – の結果である。つまり、我々も、我々が為すことも、全てナチュラルだということ。だから、君のナゲットをナチュラルと呼んではどうか。それは、全ての物質は、分子でできていると言っているのと同じだ。それは、何も言っていないのと同じだ。

意味の幅のもう一方の端では、人間性は、ある意味、自然の外側にある。我々のほとんどが未だに疑問もなく、その存在を信じているのだが、我々が何等かのかたちで変容させていない自然がまだあるというのだろうか?我々は、大気中の化学成分に始まり、農耕や料理のような文明習慣に応えるよう長く進化させてきたスーパーマーケットの植物や、動物の遺伝子、人体そのものまで、全てをごちゃまぜにしてしまっている。もし君が人間例外説を信じているのなら、自然は既に終わっている。我々は、たぶん、価値観をどこか他に見つけなければならない。
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マイケル・ポーラン(Michael Pollan)は、カリフォルニア大学バークレー校のジョンS.とジェームズL.ナイトの称号を持つジャーナリズムの教授であり、最近では、『Cooked: A Natural History of Transformation』の著者でもある作家です。

原典: “Why ‘Natural’ Doesn’t Mean Anything Anymore”, APRIL 28, 2015
注: 文中の丸カッコ内、※で記載された文章は、翻訳者による補足です。

 

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Author: Chise

森智世(もりちせ) | 公認 統合食養ヘルスコーチ(Certified Integrative Nutrition Health Coach) / ソフィアウッズ・インスティテュート代表 / 米国代替医療協会(AADP) 公認ホリスティック・ヘルスコーチ / 女子栄養大学 食生活指導士 / 国際ヘルスコーチ協会 公認国際ヘルスコーチ/ 経営学修士(MBA)| ひとりひとりのバイオ個性に着目したポストモダンでホリスティックな食事法を推奨し、マインド・ボディ・コネクション(心と体のつながり)を食を通して実現します。また、私達を取り巻くすべての環境 - 人間関係、仕事などの社会環境、自然環境、体内環境(マイクロバイオーム) - を考慮するボディ・エコロジストです。長期に渡り過ごした米国やヨーロッパの情報も、判りやすく解説を入れて配信していきます。厚生労働省「健康寿命をのばそう」プロジェクトメンバー / 目黒区男女平等共同参画審議会委員 / 日経ウーマンオンライン連載コラム『ホリスティック美女講座』執筆。食事法や健康などご相談のある方やヘルスコーチングを受けてみたい方は初回コンサルテーション(無料)にお申し込みくださいね!

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