バイオ個性で食べて、心と体をつなぎ、健康と幸せを手に入れるホリスティックな食事法をコーチングする、ソフィアウッズ・インスティテュート代表 公認統合食養ヘルスコーチ(CINHC)、公認国際ヘルスコーチ(CIHC)の森ちせです。
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目次
ソ連が崩壊した日、私は赤の広場にいた
まさしくソ連が崩壊したその日、私はモスクワの赤の広場にいました。
毎年10月に行われるソ連の革命記念日の軍事パレードを見るためです。
私は戦争や軍隊の親派ではありません。
でも、当時既に、戦車やミサイルや軍人さん達のパレードを行っている国は自由主義国にはなく、ソ連・北朝鮮・中国など、共産主義国に限られていました。あまりに非日常的な20世紀の負の遺産のようなパレードを一度実際に観てみたかったのです。
ベルリンの壁崩壊からクーデタまで
私はベルリンの壁が崩壊する年(1989年)から、日本企業のドイツ(旧西ドイツ)拠点で働いていました。年が明け、初夏に東西ドイツが統一され、東西マルクの通貨統合も行われました。
ドイツ国内のお祭り騒ぎと混乱は2年間続き、もうこれ以上の大騒ぎはしばらくないだろうと思っていた矢先、翌年(1991年)の夏、突然、ソ連のゴルバチョフ書記長が行方不明と、いう速報が流れました。
「嘘でしょ!?これガセ?」という半信半疑も伴い、職場が騒然となりました。
それはクーデタの未遂事件でしたが、数日で解決したと記憶しています。ゴルバチョフさんも無事に解放されました。(が、これがきっかけで失脚してしまいましたが・・)
そして同じ頃、東側の人々(旧ソ連の共和国の人々)がチェコやポーランド経由で西側に亡命しようと移動している、民族大移動のようなことが起こっていると報道されていました。
天邪鬼な私
話をそれよりも少し前、私の大学時代の話に戻します。
私は高校卒業後、米国の大学に進学しました。当時のアメリカは、旧ソ連と冷戦状態にありました。ソ連は「Evil Empire 悪の帝国」と呼ばれていて、公に目にするもの全てがソ連やロシア人、共産主義を「悪」として扱っていました。
その極端な状況に非常な違和感を覚えた10代の私は、敢えて、第二外国語に「ロシア語」を選択することにしました。第二次世界大戦中の日本の公安的に言うと「敵性外国語」って奴ですね。それを敢えて学ぶことにしたのです。写真は当時の教科書です。まだ持ってます(笑)
補足すると、私は留学生なので日本語を第一外国語に登録できました。そのため卒業には外国語はあとひとつだけ選択すれば十分だったのですが、せっかく米国の大学にいるのだから、日本語は敢えてノーカウントにして、米国人学生と同じように、外国語を2つ選択することにしたのです。第一外国語を「フランス語」に、そして第二外国語を「ロシア語」にしました。
私は、自分の中の心のバランス・中立性を保ちたくて「ロシア語」を選択したのですが、授業に出て驚いたのは、私以外は、軍服を着た士官学校の学生ばかりだったことです。
補足すると、私が行った大学は、いわゆる「University」なので、様々な School (日本のDepartment/学部よりも大きな括り)で構成されていますので、士官学校もそのうちのひとつでした。
なるほど、敵国の言葉を知るのは軍事的に必要なことです。でも、ロシア人の先生は、米国に亡命してきたとは言え、自分の母国と戦うためにロシア語を学ぼうとしている大勢の軍服を着た生徒たちを目の前にしてどんな気持ちだろうかと、思ったものです。
ロシア語の構造が日本語と似ていたことから、非常に優秀な成績だった一般学生の私は、ロシア人の先生にとても可愛がっていただきました。教員室に招かれて、クッキーとロシアンティをご一緒したりしました。
モスクワの街の物不足・食糧不足と長い長い行列のニュースを目にするたびに、その報道が本当なのか確かめるためにも、いつかソ連に行ってみたいという夢?希望?を抱いていました。
革命記念日を観るなら今しかない
8月のモスクワで起こったクーデタ、そして東側の人々の西側を目指す行動、それらを鑑みると、ソ連の革命記念日のパレードが観られるのは、「今年が最後になるかもしれない」という思いが大きくなりました。
そのため、9月に入ると直ぐに、10月の革命記念日の前後5日ずつ合計10日の有給休暇を会社に申請し、ソ連への旅行の手配ができる旅行社でビザの申請など、共産主義国への旅行に必要な手続きの全てを開始しました。
クーデタが起こってから、まだ2か月しか経っていないソ連へ行くという私に、会社の上司や同僚も心配をしてくれましたが、私が頑固なことは既に承知のことなので(笑)誰も止める人はいませんでした。
それに、その頃、ドイツ連邦銀行が「ソ連の闇市場で流通しているドイツマルクが急増しているため、表面的な通貨量よりもドイツマルクはだぶついている」という理由で、金融引き締めを発表していたこともあり、「本当にソ連でマルクが使えるか確かめたい」という思いも私にはありました。
ロシア人はみんな優しかった
アメリカでは、私は外国人として接せられることが普通でした。確かに外国人ですし(笑)。しかし、ソ連では、私は自分が外国人であることを意識させられたことがありませんでした。
誰しもフラットに接してくるのです。「コスモポリタン」とは、こういうことかと感動しながら街を歩いていたことを思い出します。
モスクワには横断歩道も信号機もほぼなかった
クレムリンで行われるバレエを観劇するためタクシーに乗り、駐車場で降ろされました。しかし、クレムリン劇場と駐車場との間には、大きな道路があり、横断歩道も信号機も近くにはなく、車が猛スピードで行き交っていました。
ロシア人達は上手に車を避けて道の向こう側に渡っていくのですが、もともと運動音痴の私は、車の量とスピードに圧倒されタイミングがつかめず、一歩が踏み出せないまま、どうしようかと、うろうろしていました。
すると、私を降ろしてもういないと思っていたタクシーの運転手が、突然、無言で私の腕をつかみ、「えーーーーっ!なにごとぉ~!?」と思っている間もなく、私を道の向こう側まで連れて行ってくれたのです。
一瞬だけ、すっごく男前に見えました。
ロシア人は手をつなぐ
別の機会では、トレチャコフとプーシキン美術館を目指して、地下鉄に乗り、最寄り駅で降りたものの、方向音痴の私は、やはり完全に道に迷っていました。
補足(1)なぜタクシーを使わず、地下鉄に乗ったのかと言えば、大学時代のロシア人の先生からモスクワの地下鉄が地下宮殿の様に美しいことを聞かされていたからです。絶対に観てみたいと思っていましたので、地図と路線図片手に地下鉄に挑戦したのでした。もう30年も前のフィルム写真なので画像が悪いですが、上の写真が当時私が撮った地下鉄の写真です。
補足(2)トレチャコフとプーシキン美術館は、高校生の時、地元の美術館にやってきたことがあり、そこで、「美しい四角」と日本語の訳題がつけられていた、四角いキャンバスをただ真っ黒に塗っただけの作品を観たことがあります。あまりに不思議で、その時母に「ただ真っ黒なだけなのに、なぜ美しいという題がついているの?」と尋ねた記憶があります。母は特に何も言いませんでした。
その後、ロシア語を学び、ロシア語では「美しい」という単語と「赤い」という単語が同じであることを知りました。「四角」の英語は「スクエア」で「広場」という意味があります。ロシア語の「広場」と「四角」は異なる単語ですが、ロシア語を学んで、初めて、高校生の時に観た不思議な黒い絵が、伝えたかったこと – 真っ黒な暗黒の赤の広場 – を理解したのでした。
当時のソ連で、あの絵を描いた画家がいた。そしてそれを何食わぬ顔をして展示していた美術館があり、それを海外で展示することを許していた。だから、モスクワに行くことができたらトレチャコフとプーシキン美術館には必ず行ってみたかったのです。写真は高校生の時、美術展で母が買ってくれた作品集です。
とうとう靴工場まで迷い込み、その坂を歩いていたご老人に地図を見せ、「私は今どこにいるのか。トレチャコフとプーシキン美術館に行きたい」と言ってみました。その頃はまだロシア語を少しは覚えていたのです。すると、ご老人は苦笑いをし、たぶん私のロシア語がかなりブロークンだったからかもしれません、私の手を取り、一緒に美術館まで歩いて連れて行ってくれました。
この出来事以外でも、様々な場面で方向音痴の私はロシア人に道を訊ねるのですが、もれなく、皆、手をつないで連れて行ってくれるのです。体の小さな私が子供に見えたのか、ブロークンなロシア語を不憫に感じたのか、ロシアでは手をつなぐのが普通のことなのか、理由は分かりませんが、もれなく手つなぎで私はモスクワとセントぺテルスブルグを観光したのでした。
ロシア人は良い奴なのか悪い奴なのか
第二次世界大戦から日本人が得たロシア人に対する記憶は
- 不誠実・・不可侵条約を破って樺太に侵攻した
- 残虐・・日本人の虐待・虐殺、略奪、破壊
- 非人道的・・女性への性暴力
など、概ね、最悪なものです。
今回のウクライナへの一方的な軍事攻撃についても、ミンスク合意を一方的に破った、不誠実さの表れです。
なぜ人は、ひとりひとりだと善人になれるのに、国という大義名分があると非道になれるのでしょうか。日本人だって同じです。第二次世界大戦中に日本人がアジア諸国でしてきたこと(虐殺・略奪・婦女暴行)は隠しようもない事実です。平和な時には、自分はそんなことはしないと言えても、その状況に立たされた時、本当に同調圧力に屈せず善人を貫けるのか、誰にも確証はできません。
今、ウクライナで行われている戦争のニュースを観て、ふと、こんなことを書きたくなりました。
ところで軍事パレードは観られたのか
赤の広場近くのカフェにいたのですが、いつまで経ってもパレードが始まる気配がないので、お店の人に「革命記念のパレードはいつ始まるの?」と訊ねたら、あっさりと「ソ連が無くなったからパレードはないよ」との返事が返ってきました。
「うっそぉ~!!いっつ~!?」と心の中で叫びながら、赤の広場まで走って行きましたが、行き交う人々は business as usual。キツネにつままれた様な面持ちでクレムリンを歩いていると、NHKと書かれた報道カメラを抱えた日本人たちとすれ違いました。「そりゃニュースになるよね~」と思いながら横を通り過ぎました。
後に、ドイツに帰って来てからレーニンの銅像が引き倒されている映像をテレビで観ましたが、少なくともその日のモスクワの中心地は、いつもと変わらぬ穏やかな時間が流れているだけでした。
物不足と長い行列は本当だったがマルクよりもドルが人気だった
その他、私が現地で確認したかったことはほぼ確認できました。
スーパーにもデパートにもほとんど品物はありませんでした。唯一、品物があるのは外国人しか入店できないドルしか受け付けないお店でした。そこにはとても素晴らしい手工芸品から毛皮、食料品まで何でもありました。しかし街の普通のお店の棚には何もありませんでした。
ロシア語の先生から、長い行列があったら「取り敢えず並ぶことが重要」と教えてもらっていたので、私もロシア人と同じ様に長い行列に何回か並んでみました。ひとつは、並んだその先にはパン屋さんでした。小さじ半分ほどの僅かな杏ジャムが入った小さな小さなあんぱんを売ってくれていました。2個購入して食べました。スコーンの様な生地のパンでした。美味しかったです。
もうひとつは、ロシア人達が口々に「モロージュナ(アイスクリーム)」と言っていたので、すかさず並びました。これもロシア人の先生から、ロシアのアイスクリームは格別に美味しいから、もしアイスクリームの行列を見つけたら絶対に並んで食べることと教えてもらっていたのです。古い木の机の様なものの上に、直接大きな四角い白い塊が載せてあって、それをノコギリの様なもので厚さ2cmくらいの約5cm四方に切って、新聞紙の上に載せて売ってくれました。衛生的?では決してありませんが(笑)、寒い寒いロシアの冬ですから、バクテリアはいないはずですから食べました。美味しかったです。
当時、市中でドル(外貨)で買い物をすることは禁じられていましたし、ロシア人が外貨を要求することも禁じられていました。でも、ブラックマーケット(闇市)では、ドルとマルクが使えましたし、大抵はドルが好まれました。
ソ連が崩壊してルーブルの価値が暴落して、いつ消滅するかも分からない様な時に、わざわざドルをルーブルに替えたくない私と、ドルが欲しいロシア人の気持ちが合致した場でした。
また、お店の裏側へ行って、こそこそと支払うのですが(笑)ドラマの様で面白かったです。
ルーブルについて補足すると、私はソ連への渡航にあたっていくらかドルをルーブルに交換していました。行列の先や街のお店ではそれを使用していましたが、旅行も後半になると手持ちのルーブルが少なくなってきました。しかし上記の様な理由でそれ以上の交換もしたくありませんでした。そのため、闇市でドル払いの交渉をすることにしたのです(笑)
当時のソ連ではルーブルの国外持ち出しが禁じられていました。空港でルーブルを返却すると、証書が渡され、次回入国時に証書と引き換えに払い戻してもらえることになっていました。でも、消滅するかもしれないルーブル札を持って帰りたくて、手持ちのルーブルを、記念として持ち出すものと、ダミーで空港で申請するものとに分けました。
ソ連が崩壊した5日後にモスクワを発ったのですが、その時には、たぶん、空港職員もやる気がなかったのでしょう、たいした調べもなく隠したルーブルが見けられることもなく持ち出せました。返却したルーブルの証書もわら半紙の様な小さな紙切れで、それでも私はそれを今でも持っているはずなのですが、今回、あらためて探したら見つかりませんでした。どこに仕舞ったのでしょうか・・。いつかまたロシアに行く機会があったら、それが使えるか確かめたいのですが・・(笑)
モスクワとセントペテルスブルグの観光もちゃんとしましたが、それはまた別の機会にでも・・。
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新学期は、毎年3月と9月です。講座でお会いしましょう。
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